博士の愛した数式

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

繰り返すが、この物語のキモは博士のキャラクターにある。付け加えれば、博士自身の持つ切なさ儚さと、博士と心を通わせていくことの切なさ儚さこそがポイントだ。我々は家政婦親子の目線でもって博士の独特の魅力を体験し、そのことによって我々は博士に思い入れ、そんな博士に好意を持つ家政婦やルートに共感し、そんな3者の儚く危うい関係に切なさを感じるのだ。そのために散りばめられた原作の大事なエピソードのいくつかを、映画版では削っている。

例えば博士がルートを病院へ連れて行くシーン。映画では博士が「救急車、救急車!」と叫び、次のシーンでは病院でルートの治療を待っている。しかし、原作では博士が取り乱しながらルートを抱えて病院に担ぎ込むのだ。記憶が続かない故にそれまで周囲から気遣われ、庇護されていた博士が子供の命を守るために一心不乱に走るのだ。守られる存在の博士が守る存在へと劇変し、その姿に我々は打たれるのだ。それなのに、あろうことか、博士の子供への情愛の深さを物語る上で外せない最も重要なこのエピソードが、映画ではあっさりカットされている。もうね、なんでやねん、と。

また、原作ではさらに時が流れ、ルートが成長する一方でやがて博士の記憶の維持できる時間がどんどん短くなり、最後には博士の死に至るところまでが書かれている。この辺はたいしてページ数もなく淡白な描写なので悲壮感はないが、ここに我々が博士に抱いていた切なく儚い感情がキチンと昇華させられる。しかし映画ではこの過程が描かれず、数学教師になったルートと博士がキャッチボールするシーンで終わり、我々が博士に抱く切なさ儚さがこの上なく薄められてしまうのだ。そもそも博士はおっさんになったルートの頭を同じように撫でたりするんかいな。

物語の語り方にも違和感がある。原作では家政婦視点で話が進み、家政婦が主張なく淡々と語り部に徹しているのに対し、映画では数学教師になったルート視点で語られ、ときおりルートの数学の授業が入り、最後に博士とキャッチボールして終わるなど、博士にピントがあってるのかルートの物語なのかがはかりかねる。しかもルートの昔語りは「今日の授業はこれまで」などと唐突に打ち切られ、正直え?もう終わりなの?と、中途半端な終わり方に感じた。途中でいきなりナレーションが家政婦に代わるなども意味不明である。

この物語は博士の魅力に触れ、そんな博士を好きになる親子の優しさに触れ、数学の魅力に触れる、そんな物語だ。切なさと儚さをほんの少しスパイスとして加わえた優しいテイストの物語だ。映画にしろ原作にしろ物語そのものの面白さには触れてみる価値がある。しかし、原作がとてもいい題材であり、おそらく2、3時間かければ描ききれる程度の分量のため、映画に関しては期待が大きかった分残念な点が多かった。正直そんな感想だ。話に興味を持っている人で活字嫌いでなければ原作をおすすめする。